あのとき、船橋は
2006年10月08日
あのとき、船橋市立湊中学校は
1945年(昭和20)第2次世界大戦が終った.この悲惨な戦争の影響で日本の出生率は極端に少なくなっていたが、1947年から1949年にかけてはその反動で急激に出生が増えた.その世代が第一次ベビーブームで生まれた団塊の世代(だんかいのせだい)たちである.急激な首都圏の拡大により船橋も急速にベットタウン化していく.
戦争が終わり、普通の生活を取り戻そうとしていたころの1947(昭和22)年の船橋市立湊中学校の場所.まだ海の中だった.
丁度この世代の子供たちが中学校に入学するころの1961年(昭和36年)に、船橋市立湊中学校は船橋中学校より分離独立する形で開校する.このときすでに、1年生6学級・2年生6学級で生徒579名だった.しかし、他の小中学校も開校・増築しないといけない状況だったため、ようやく体育館ができたのは1968年(昭和43)になってからのことだった.
左写真は1979年(昭和49年)の船橋市立湊中学校.体育館前の別館はまだ建っていない.右写真は1984年(昭和59年)の船橋市立湊中学校.
左写真は1987年(昭和62年)の船橋市立湊中学校.右写真は1989年(平成01年)の船橋市立湊中学校.
第一次ベビーブームで生まれた団塊の世代は、家族から独立して家庭を持つようになる.著しい住宅不足を解消すべく、隣りの若松地区に日本住宅公団若松団地の造成がおこなわれた.1969年(昭和44年)に宮本中学校から分離する形で若松小中学校が開校している.団塊の世代は22才になっていた.しかし現在の若松小中学校の場所ではない.
左写真が若松小学校で、国鉄京葉線建設にしたがい学校を現在の場所に移転している.右写真が若松中学校で、ここも移転している.
また、船橋市立湊中学校は西側と北側が海に面しているが、1969年(昭和44年)ごろの船橋の湾岸は、深刻な地盤沈下に直面していたため、その対策として防潮堤の工事をおこなっている.
1997年(平成9年)には給食施設とランチルームが完成している.
戦争が終わり、普通の生活を取り戻そうとしていたころの1947(昭和22)年の船橋市立湊中学校の場所.まだ海の中だった.
丁度この世代の子供たちが中学校に入学するころの1961年(昭和36年)に、船橋市立湊中学校は船橋中学校より分離独立する形で開校する.このときすでに、1年生6学級・2年生6学級で生徒579名だった.しかし、他の小中学校も開校・増築しないといけない状況だったため、ようやく体育館ができたのは1968年(昭和43)になってからのことだった.
左写真は1979年(昭和49年)の船橋市立湊中学校.体育館前の別館はまだ建っていない.右写真は1984年(昭和59年)の船橋市立湊中学校.
左写真は1987年(昭和62年)の船橋市立湊中学校.右写真は1989年(平成01年)の船橋市立湊中学校.
第一次ベビーブームで生まれた団塊の世代は、家族から独立して家庭を持つようになる.著しい住宅不足を解消すべく、隣りの若松地区に日本住宅公団若松団地の造成がおこなわれた.1969年(昭和44年)に宮本中学校から分離する形で若松小中学校が開校している.団塊の世代は22才になっていた.しかし現在の若松小中学校の場所ではない.
左写真が若松小学校で、国鉄京葉線建設にしたがい学校を現在の場所に移転している.右写真が若松中学校で、ここも移転している.
また、船橋市立湊中学校は西側と北側が海に面しているが、1969年(昭和44年)ごろの船橋の湾岸は、深刻な地盤沈下に直面していたため、その対策として防潮堤の工事をおこなっている.
1997年(平成9年)には給食施設とランチルームが完成している.